「彼らの時代」を生きるということ――和辻哲郎文化賞受賞にあたって

2010年4月2日 - 10:01
今橋理子


「秋田蘭画」や「小田野直武」と聞いて,それがすぐに江戸時代の画派であり,画家の名であることを知る人は,一般にはまだ少ない.それが証拠に,パソコンで例えば「りんぱ(琳派)」や「おがたこうりん(尾形光琳)」と入力すると,たちどころに正しく漢字変換されるが,「あきたらんが」の場合では「飽き足らんが」(!)などと表示されるのが落ちで,私自身も手持ちのパソコンがこの名詞を記憶してくれるまで,何度となく苦笑させられたものだった.

しかし現在の日本の美術史学において,秋田蘭画は決してマイナーな画派ではない.そのことは,例えば辻惟雄著『日本美術の歴史』(東京大学出版会,2005年)のような教科書に,秋田蘭画が記載されていることからも明らかである.そして,この画派の主人公である小田野直武(1749−1780)が,あの日本初の西洋解剖学の翻訳書『解体新書』の挿図を描いた画家であると知れば,誰もが興味をそそられるに違いない.かく言う私も学部生の頃,授業で初めて小田野直武の傑作「不忍池図」(重要文化財,秋田県立近代美術館蔵)のスライドを見せられたときの衝撃とともに,その画家が,日本史の一ページに刻まれる,あの重要な出来事に絡む人物であったという事実にさらに驚き,急速に彼の生涯と作品に惹かれていったのである.
(続きを読む…)

もうひとつの馬文化 −テラコッタ馬像を奉納する人々−

2008年7月14日 - 21:07
木村李花子


インド中西部・グジャラート州の北部にトゥブラージュという小さな村落がある.中央付近の小山の頂上には社があり,そこは無数のテラコッタ馬像に囲まれた聖域になっていた.赤茶色の真新しい馬と古く黒ずんだ馬は,ひしめき合って一つの薄暗い杜を形成し,みな法悦の表情を浮かべ,口を丸く開けたまま東を向いている.大きな白髭を携えた社の世話役が,参拝者の前で火供用の供物に油を注ぐと,煙は勢いを増して白く立ち上り,幾重にもなびく白い祈祷旗に届き,そして祭壇のひと際高くに並んだ馬の口に吸い込まれていった.馬像の額に施された生贄の山羊の血は,もうとっくに素焼きの生地に吸い込まれ,祭壇にはかすかな生臭さだけが残っていた.
______DSC_0053.jpg______DSC_2310.jpg
左:村の社に奉納されたテラコッタ馬像(グジャラート州ポシナ村)
右:アイヤンナール神に奉納された馬像(タミル・ナードゥ州東部地方)

先住部族民の多く住むこの地域には,テラコッタ馬像を願掛けとして奉納する習慣がある.特に,日本の正月に相当するといえるディワーリや春祭りホーリーの頃,村々は参拝者で賑わう.ここでは高さ30〜80cmほどのテラコッタ馬像が,神の乗物あるいは祖先神とみなされ,願掛けにあるいは大願成就のお礼に社に奉納される.

インドでは,信仰対象となる神や,奉納馬像の意匠の違いこそあるものの,テラコッタ馬像を奉納する習慣が各地にわずかながら残っている.その習慣は,先住部族民あるいはインドの土着ともいえるドラヴィダ語族系の文化に色濃く継承されている.例えば,南インド,タミル・ナードゥ州東部では,各村に必ずひとつ祀られる村の守護神アイヤンナールの社に,毎年あるいは数年毎に巨大なテラコッタ馬像が奉納される.

馬文化はアーリア人によってもたらされ,アーリア人によって占有されてきたという固定観念はインド国内でも未だ根強い.また,ドラヴィダの馬の造形は,先進民族に対する憧憬と畏怖の衝撃から誕生したものだとする,彼ら自身の馬文化の存在には否定的な説も広く受け入れられている.しかし,太古の森・ボパールの洞窟壁画にまで遡ることのできる,先住部族民たちの狩猟や騎馬戦時の馬利用,そして現代に踏襲される祭祀・儀礼の場に登場する馬像や絵の位置付けや造形表現の独自性は,アーリア系の馬文化とは異質の馬文化があった可能性を示している.

ドラヴィダ語族やその他の先住部族民らの世界の中にある充分に熟成された,もうひとつの馬文化の証を調査していこうと思う.この文化の黎明期の謎に迫り,興隆期の馬使用の実態を知り,やがて生活の場から生きた馬がかい離し,祭祀や儀礼にのみその姿が遺されていくまでを辿りながら検証することで,初めてインドの馬文化の全体像が見えてくるだろう.
______LIFE1.jpg______LIFE9.jpg
左:グジャラート州ポシナ村の馬像奉納  
右:お礼参りの参拝者(グジャラート州トゥブラージュ)

知の冒険者たちの創発の心意気を知る──「コレクション認知科学」完結にあたって

2008年2月15日 - 17:53
佐伯 胖
(「UP」2月号より転載)


いきさつ

1980年代後半(1985─92年)の「認知科学選書」全24巻の刊行は,いろいろな意味で画期的な出来事だった.第一には,執筆者たちが総じて若かったこと(全執筆者26名のうち30代が12名,最年少は31歳)があげられよう.しかも,原則として単著(共著は第1巻と第20巻のみ),内容は「人間・機械・動物の“心の働き”に関する執筆者独自の研究」という注文をつけて書いていただいた.当時の「慣例」では,若手研究者というのは,「大御所」が編集ないし監修される本のなかの一章とか一節(たいがいが指定されたトピックの「解説」)を分担執筆することが多く,単著(しかも啓蒙書)をまるまる一冊まかされるということはめったになかったといえよう.第二には,当時,「認知科学」というのは書店にとっては全く新しいジャンルだったということである.題名をいくらながめても,それが「心理学」なのか,「言語学」なのか,「コンピュータ科学」なのか,それとも「今までにない領域」なのか,どの棚にならべればよいかがまったくわからない.そういう異なる領域にまたがるものを「認知科学」としてまとめるにはどうしたらよいか,書店としては頭を悩ませたようだ.都内の某書店は東京大学出版会まで来て「認知科学」についてのレクチャーを受け,対応策を検討したほどである.

このような画期的な出版の企画が生まれた背景には,1980年代に入ってからのすさまじいまでの「認知科学」ブームがある.1980年に「認知科学に関する日米シンポジウム」が開催され,これをきっかけに,認知科学研究が我が国で一挙に広がり,83年に日本認知科学会が設立され,84年にその第一回大会が開かれている.この間の「認知科学」創出に向けての若い研究者たちの「熱気」については,本シリーズ第1巻『認知科学の方法』における佐伯の「解題」に詳しい.

このように日本の若手研究者たちを中心にして新しい学問領域が「起ち上がる」ということは,我が国の学術研究のなかで「歴史的な出来事」ではないだろうか.そしてそのような「気運」を代表するのが「認知科学選書」の刊行であった.

そのなかから,「現時点で読み返しても今日的な意義が十分高く,改めて読み返されることで,今日盛んに展開されている認知科学研究の源流を知り,新たな方向をさぐるヒントを与える12巻を,編集委員の合議を経て,新装版として刊行」(“刊行にあたって”より)されたのがこの「コレクション認知科学」である.新装版では,原文には筆を入れず,執筆者にはかつての自著をふりかえっての「解題」を執筆していただいた.

「認知科学選書」の刊行から約20年経ったいま,当時「若手」だった執筆者も50歳を超え,もはや「中堅」を通り越して各界を代表する「第一人者」になっており,当時「中堅」だった方たちはそれぞれ「大御所」になっている.彼らの「若かりし頃」の研究を改めて読み返すことは,「新しい研究をはじめる」というときに人はどのような意気込みをもち,どのような葛藤と迷いのなかでもがきながら,かすかに浮かび上がってくる「一筋の道」をさぐりあてていくものかに,ナマで,直接触れることになる.
(続きを読む…)

ハドソン河に銀の波たつ

2007年10月15日 - 17:19
太田浩一
(「UP」10月号より転載)

本は,東京大学出版会の本以外は,なるべく買わない方がいい.ただでさえ狭いわが家は本であふれている.食卓の上も下も,床も,ふとんのまわり四方も,本が占領している.一部屋は侵入不可能になった.自宅で本を探すより,図書館に行くか,書店で立ち読みする方が手っ取り早い.もう限界だ.ついに引っ越しすることに決めた.引っ越し当日.威勢のいい若者たちが,本がぎっしり詰まった段ボール箱を五階から下まで運び,すぐに階段を駆け上がってくる.そのどさくさに,タンスの後ろに転げ落ちた埃まみれの本を見つけた.スティーヴンソンの小説『バラントレイの若殿』だ.なにげなく読み始めたが,「押し入れの奥にまた本の山を発見しましたっ」とか,「これではトラックが足りません.もう一台追加して応援部隊を頼みますっ」などという騒々しい声をよそに,スティーヴンソンの世界に浸りきってしまった.

物語はスコットランドから始まる.ダリスディア男爵家の長男ジェイムズと次男ヘンリーが,爵位と財産と一人の美しい女性をめぐって,相手を殺しても飽き足らぬほど憎み合い,生涯にわたって激しく争う.小学生のとき,おかずの大きさをめぐって争った兄弟喧嘩しか経験のないぼくには想像を絶する世界だ.物語の主要な舞台の一つがハドソン河上流にあるニューヨーク州首都オールバニー.無頼漢の若殿,長男ジェイムズは1745年に,王位奪還をもくろんだボニー・プリンス・チャーリー(チャールズ・エドワード・ステュアート)に馳せ参じたが,プリンス・チャーリーの敗北でスコットランドから逃亡し,海賊にまで身を落とす.やがて脱出して,オールバニーの商人の船でニューヨークからハドソン河をさかのぼってオールバニーに向かう.若殿はアディロンダック山中に海賊から奪った宝物を埋めた.やがてこの場所は兄弟がほとんど同時に命を失う場所になる.

ニューヨークからモントリオールへ向かう列車アディロンダック号に乗車するとハドソン河に沿って北上し,オールバニーを経てアディロンダックに着く.アディロンダックはインディアンの種族名だ.列車は,オールバニーでは,対岸のレンセラー駅に到着するから,旧市街にターミナルがある直行バスの方が便利だ.バスを降りてマディソン大通りを上って行くと現代的な州立博物館に出るが,その手前で,南パール通りとの交差点あたりにジョウゼフ・ヘンリーの生家があった.ヘンリーは1797年12月17日に生まれた.南パール通りを南下すると記念館「チェリーヒル」がある.州随一の大地主で政治家スティーヴン・ヴァン・レンセラーの邸宅だった.そのすぐ南にヘンリーの祖父母の家があった.祖父母も父もスコットランドからの移民だ.祖父はプリンス・チャーリーがグラスゴウに入ってくるのを目撃していた.1775年6月16日にニューヨーク港に到着した一家はハドソン河をさかのぼり,オールバニーにやってきた.ダリスディア兄弟が世を去って10年あまりたった頃だ.
(続きを読む…)

藤田賞を受賞して

- 16:57
田中 傑

テーマ選択をまちがった.そう感じたのは博士研究をスタートさせて間もなかった頃のことだ.その当時(1998年夏)でさえ関東大震災から75年,「震災前後で市街地やそこで営まれる生活がどのように変容したか」を把握するには時間があまりにも長い時間が過ぎていた.加えて,わたしには「東京の下町」という対象地に地縁も血縁もなかった.本研究が「文献研究」という面白みに欠ける手法をとらざるを得なかったのはこのためである.

実は,わたし個人としては(達成感はもちろん得たものの)この難産の研究に対して複雑な気持ちを抱いてきた.それは第一には文献研究が面白みに欠けるだけでなく,その過程において資料の読み手の恣意性が侵入する危険性があるため,第二に研究目的で「震災前後で…」としながら「震災前」の状況を充分にレビューできておらず(資料上の問題),看板倒れの感があるためである.前者に関しては,そのカウンターステアとして帝都復興期における人口と建築ストックに関する定量的分析を盛り込んだが,それが軌道修正として充分であった証拠はない.今回,市政調査会から藤田賞に値するとの評価を頂いたことに,若干の心苦しさを感じるのはこのためである.

__________________.jpg
 財団法人東京市政調査会藤田賞奨励賞の賞状を手にする田中傑氏

拙著『帝都復興と生活空間 関東大震災後の市街地形成の論理』が刊行されて1年近くが経過した.この間,治療に専念してきた椎間板ヘルニアはほぼ完治し,また専門に関する仕事を幾つかお受けしたが,その合間に少しずつ続けてきた研究がある.静岡大火(1940年)後の復興に関する研究である.このテーマならば地縁があるし,関東大震災よりずっと新しい時代を扱うから,博士研究で断念したヒアリング手法をとることができる(そのかわり,残された文献資料は圧倒的に少ないが…).拙著で誤摩化した宿題の帳尻を,こちらで合わせようという次第である.

ヒアリングは大火前の町並みを記憶する老人を対象に行っており,対象者はその生家の業種・業態および所在地を勘案して選定している.当日は市街地図や土地台帳附図,絵葉書などを示し,大火前の住宅,大火後および戦災後のバラック(静岡の中心部は大火の5年後に空襲で再び焼け野原となった)および戦後の住宅について,それぞれ間取りや住まい方,周辺状況などを聴取している.市民の記憶は行政機関や専門家のそれと違って曖昧で無責任なものではあるが,その代わり,自らの業績を誇張したり正当化する虚偽の証言である危険性もない.

第一報は今秋刊行の地域誌に掲載予定であるが,研究が完了したあかつきには,是非,東大出版会に「帳尻あわせ」のご協力を願いたい次第である.

(たなか・まさる   都市工学)

二君に仕えて――発展途上国研究奨励賞受賞にあたって

2007年7月23日 - 19:26
有田 伸

以前,同僚の方がおっしゃっていたことなのですが,地域研究とは人遣いの荒い王様(ディシプリン)と気まぐれな女王様(対象地域)の二君に同時に仕えるという実に危険な試みなのだそうです.主に社会学の立場から韓国研究を続けてきた私も,二君に仕える上でそれなりの苦労を重ねてきたように思います.

私が現代韓国社会研究,特に社会階層に関する研究をはじめた当初,このテーマに関する実証研究は韓国内においても数少なく,利用できるデータも限られていました.しかしその後,大規模な社会調査が自由に行われるようになり,またアメリカ経由で高度な分析手法が次々と紹介されるにつれて,韓国の学界における研究の水準は飛躍的に向上してきました.私もこの流れに何とかついていこうと必死にもがいてきたのですが,今思えばそれは,育ちの早い麻を毎日飛び越える忍者の修行を無理やりこなしているような,なかなか大変な過程でした.

しかしその一方で,地域研究者として外側から韓国社会を眺めるという立場に立つ自らの研究の方向性に関しては,悩みも少なくありませんでした.最新の研究は非常に精緻である反面,扱う問題は限定される傾向があり,韓国社会を理解したいという自らの問題関心に真正面から答えてくれるものはそれほど多くなかったのです.「専門領域における研究の進展をふまえながら,同時に,地域研究者として『韓国社会とは何か』という大きな問いに答えていくにはどうすればよいのだろうか……?」

今回,思いがけず発展途上国研究奨励賞(日本貿易振興機構アジア経済研究所)という大変名誉な賞をいただいた拙著『韓国の教育と社会階層――「学歴社会」への実証的アプローチ』は,この問いをめぐって悩みに悩んだ末の産物です.まず私が心がけたのは,韓国社会の文脈と背景を十分にふまえた「より適切な実証分析」を行うということでした.地域研究者として養ってきた韓国についての知識や感覚を,社会科学の問題系と分析手法――私が用いたのは非常にシンプルなものではありますが――により良く接合させることを試みたわけです.さらに,研究の間口をできる限り広げて,現実の韓国社会に関して少しでも「大きな絵」を描いていくよう最大限の努力を払いました.

しかし,これらの試みは,もとより浅学な私にとって時に手に余るもので,正直に言って,いろいろなところでアラや不足が目立ちます.それでも,先行研究のそれほど多くないこの領域に一つの「踏み台」を提供できたとすれば,筆者としてこれ以上の喜びはありません.

こうして一書を世に問うて改めて感じているのが,二君に仕えることの難しさです.単純に考えても一人の君に仕える時間は通常の半分になってしまうわけですから,「二君に仕えている」と信じているのは自分だけで,実は王様にとっても,女王様にとっても満足な働きができていないのではないか,と不安に苛まされることが少なくありません.出仕先をどちらか一方に絞ってしまうという誘惑にかられることも多いのですが,しかしその誘惑にのってしまうと二度と今のポジションには戻れなくなってしまいそうなので,もうしばらく,この中途半端な状態を保ってみようかと思っています.

(ありた・しん 地域研究)

立花隆先生講演 『戦後日本のファウンディングファーザー・南原繁,そして大学の役割とは』

2007年5月2日 - 19:40

2006年8月15日,東大安田講堂で開催された「8月15日と南原繁を語る会」.その内容と南原繁の主要演説をまとめた『南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由』の刊行を記念して,2月24日に編者の立花隆先生と執筆者のお1人である辻井喬先生との対談が、3月9日に立花隆先生の講演会が行われました.その要旨を2回に分けてご紹介します.今回は立花先生の講演会をご紹介します.(文責:東京大学出版会編集部)

■終戦前後の東大キャンパス

ほとんどの人,特に若い人は「南原繁って誰?」という感じでしょう.僕はいま66歳ですが,南原さんと聞いてピンと来る人は,僕らの世代が最後ではないかと思います.

僕自身が,南原さんという人の立派さに気付いたのは『天皇と東大』(2005年刊,文藝春秋)を書くことを通じてなんですね.この本を書く過程で,南原さんの文章をたくさん読み,読むたびに「こんなすごい人がいたんだ」と.そこから始まっているのです.

去年の8月15日に「8月15日と南原繁を語る会」を東大の安田講堂でやりました.1945年8月15日に,安田講堂で天皇の詔勅を聞いた人たちがいる.彼らの話にはびっくりするようなことがたくさんあるので,「語る会」でいまもお元気な方々に語ってもらいました.

安田講堂にいたのは,ほとんどが医学部の学生だったんです.その背景はこういう事情です.日本はもうすぐ本土決戦という時期でした.そうすると最後は東京決戦になるわけです.第2次世界大戦で,ドイツのベルリンでは東のソ連側からも西側からも連合軍が迫って,めちゃくちゃな戦争をやり,終ったときにはがれきの山になりました.日本の軍部は,このベルリン式の最後の決戦をやるつもりになっていた.そうなったときに,東京決戦をどこでどうするかという計画を練っていた.

最後の防衛線をどこに引くかといったら,川なんです.隅田川,荒川といった川を上流でせき止めている堤防を切る.そうしたら関東平野は一挙に水浸しになる.東京をご存知の方はわかるかもしれませんが,東大は本郷台地というところにあり,その先に上野の山がある.堤防をきると,本郷台地と上野の山の間が波打ち際になるんです.そこで最後の決戦をするつもりだった.東大の本郷キャンパスは波打ち際を上から見下ろす位置にあり, つまり東大は最後の防衛本部になる予定だったんですね.
(続きを読む…)

『戦後日本の原点を見つめなおす』

2007年4月16日 - 22:13

『南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由』刊行記念 トークセッション
立花 隆 (評論家・東京大学大学院情報学環特任教授)× 辻井 喬(小説家・詩人)

2006年8月15日,東大安田講堂で開催された「8月15日と南原繁を語る会」.その内容と南原繁の主要演説をまとめた『南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由』の刊行を記念して,2月24日に編者の立花隆先生と執筆者のお1人である辻井喬先生との対談が、3月9日に立花隆先生の講演会が行われました.その要旨を2回に分けてご紹介します.今回は立花先生,辻井先生の対談をご紹介します.(文責:東京大学出版会編集部)

■戦後日本の原点をつくった南原繁

立花:南原繁というと,僕の世代は活字を通して存在は知ってるんです.実際に顔を見た経験も多分あったんだろうけれど,いつ,どの機会に,どういうふうにしてあった,という明確な記憶がないぐらいの,ぼんやりした存在です.

しかし,戦後日本の原点というものを考えるときに2人の人,つまり吉田茂と南原繁というのは欠かせない存在であるわけですね.吉田茂は,政治史のなかで特筆されている人間ですから,知らない人でも知っているような気がして,その存在の大きさというのをそれなりに認識しているわけですけれども,実は戦後日本というものを考えたときに,南原繁というのは吉田茂以上に大きな役割を果たした.その意味はまさに,この本『南原繁の言葉』をたどっていくとわかります.日本がいま現在このようにあるのは,戦後に南原さんが東大の総長で,東大の演壇を通して次々発信を続けていった,その言葉の力の影響がすごく大きかったわけですね.

南原さんという人は,憲法にも教育基本法にもかかわり,戦後日本の骨格部分を学問のサイドから作り上げた人であったわけです.そのうちの一角,教育基本法はもうすでに改正されてしまいました.おそらくいまの人たちは,教育基本法が改正されることの意味をほとんど正確に認識しないまま,政治の日常的な流れの一コマみたいな感じで受け止めちゃったのではないでしょうか.
(続きを読む…)

花粉と中性子星、あるいは暗黒エネルギーと神

2007年3月13日 - 20:39
小林康夫
(「UP」2月号より転載)

「夜は,われわれもその一部をなす特別な創造の固有にして正常な状態なのだ」ヴィクトール・ユゴー(1)

宇宙には中性子星というものがあるらしい.驚くべく高密度な存在で,もしスギ花粉が中性子星の密度をもつとすると,約10-3cmのサイズの花粉が「なんと1トンの重さに達する」のだそうである.鼻の奥がかゆいような重いような気分がしてくるが,この引用にはわざわざ註がついていて,「やや意味不明のきらいはあるが見逃してほしい」と読める.のけぞりそうになった.昨年の秋,ベルリンへ行く飛行機のなかである.

原稿のこの部分を書いていたときにきっと著者は花粉症に悩まされていたにちがいないと推測はできるが,しかしたくまざるユーモアのセンスに畏れいった.人間の感覚を圧倒的に超えた宇宙の果の事象の本質を,アナロジー的に転換して一挙に人間スケールへと落としこむ技は,ただ者とも思われない.いや,本のタイトルからして秀逸である.『UT Physics1 ものの大きさ』─こんな誰にでもアクセス可能な切り口で物理学のある本質を見せてくれるというのは素晴らしい.なにしろ,先回りしてこの本のいちばん最後に触れておくと,「億劫」という佛教由来の数の単位が,一劫の一億倍で,「宇宙の年齢などはるかに超越した単位」をわれわれは日々口にしているという膝の力が抜けるような指摘で終わるのだ.

というわけで,わが漂流の最初の寄港地として,まず須藤靖さんに会ってみようと,12月のある日の黄昏,安田講堂裏のまだ真新しい理学部1号館をぶらり訪れた.

とはいえ,忙しい研究者に融通をお願いした時間は約1時間,わたしが手にしているのは『ものの大きさ』1冊のみ.飛行機のなかで通読したとはいえ,数式まできちんと理解しているわけではさらさらない.いったい何をうかがったらよいのか,こちらから会おうと申し込んでおいていい気なものだが,はっきりとした質問があったわけではない.ただ思惑としては,ある意味では完全に「スペキュレーション(思弁)」に突入してしまっているように見える物理学の最先端に「(研究者として)いる」感覚がどんなものなのか,を知りたいということだったろうか.
(続きを読む…)

『南原繁の言葉』刊行記念対談 ――立花 隆・辻井 喬 「戦後日本の原点を見つめ直す」

2007年3月2日 - 19:10

昨年8月15日に東大安田講堂で行われた「8月15日と南原繁を語る会」をもとにした講演集『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』,長らく品切れとなっていた南原繁の名著『文化と国家』『政治理論史』の新装版での復刊を記念して,2月24日に東京堂書店神田本店でトークセッションを開催しました.

演者は『南原繁の言葉 8月15日・憲法・学問の自由』の編者である立花隆先生,第4章の執筆者の辻井喬先生のお二人.当日は受付前に長蛇の列ができる大盛況で,130人収容の会場は満員になりました.

最初に戦中,戦後の時代の変遷と南原繁の発言をまとめたショートフィルムを上映,その後,お二人のトークセッションが始まりました.その中で,
(続きを読む…)

| より以前の記事 »

月別記事リンク

 ●最近の読みもの(新着20本)