虫を食べる─人間と自然のひとつの関係

2006年1月24日 - 13:47
野中健一
(「UP」12月号より転載)

旬を味わう 

2005年11月3日,「第12回全国ヘボの巣コンテスト」が岐阜県串原で開催された.食用にクロスズメバチ(この地でヘボという)を飼育する人々がその巣を持ち寄り,できばえを競うというものだ.このコンテストは回を重ねるごとに盛況となり,地元のみならず,岐阜,愛知,長野,静岡各県からの参加がある.今年は137の飼育巣と11の天然巣が出品された.会場では,ヘボ飯やすりつぶしたヘボのタレを付けたヘボ五平餅が販売され,大勢の客でにぎわった.出品された巣の多くも販売され,1キロ1万円と高価であるにもかかわらず人気が高く売り切れとなった.私も巣をひとつ購入し,ともに参加した友人,家族と賞味した.生きた巣の巣盤からハチの子を一匹ずつつまみ出す作業は手間がかかるが,現物に接することで,生態や巣を採り育てる苦労や楽しみを想像しておしゃべりがはずんだ.それらを混ぜご飯と煮付けに料理した.調理方法は父方の実家から伝わる方法である.秋の一日,その新鮮な風味とぷりぷりした食感を楽しみながら,旬のごちそうとしてヘボを味わうことができた.

このように書くと,「昆虫を食べるなんて信じられない」と目をそらす人もいそうだ.昆虫は異質な食物の代表のようでもある.しかし,地元の人々はヘボ食を誇りに思い,また,そのネットワークもどんどん広がっている.身近に存在する生き物がどうして食べ物になるのだろうか.あたりまえに食べられるものが,ところが変われば忌み嫌われさえするのはどうしてだろうか.さらに異質なものをどう認めていくか.価値観の共有はどうすればできるだろうか.このような課題を追究するため,私は「昆虫食」を題材としてこれまで調べてきた.

幸せな出会い 
昆虫食に目が向いたのは偶然であった.私の父方の実家はヘボ食のさかんなところにあった.祖父はヘボ採りの名人だったそうだ.幼少の私はヘボを好んで食べていたらしい.大きくなったらいっしょにヘボ採りに連れていくのが祖父の夢だったようだが,残念ながら私が小学校二年生のときに亡くなってしまった.その後いつのまにか,私はヘボ食から遠ざかっていた.

20060124_1.JPGヘボの巣コンテスト優勝のヘボの巣

大学生時代のある夏,山で下草刈りの仕事をしていたときだった.午後の休憩時に,ちょうどアシナガバチの巣が見つかった.いっしょに仕事をしていた人がそれを採って幼虫を取り出し,「これはミルキーだぞ」といいながら食べさせてくれた.私は仕事に疲れてヘトヘトになっていたが,その人のうれしそうな顔の輝きに,自然に接することの喜びの原点がここにあると思った.自然と向かい合う仕事とはなんだろうか.環境問題に立ち向かうためにはどうしたらよいのか.それまで私のなかで漠然としていた将来の仕事に対する思いが,その人の満面の笑顔に「これだ!」とはじけた.そして,自分自身のヘボ食経験を思い出したのだった.

ところが,自分のまわりの人たちに聞くとそんなものは食べないという.人間はどのようにして自然を取り込むのだろうか.同じものに対して,どうしてこのような違いが出るのだろうか.そこに人間と自然の関係を見るカギがあるのではないかと考え,地域性や文化の問題と人々の価値観とを合わせて,地理学の課題として卒業論文のテーマに選んで取り組んだ.文献調査や全国規模のアンケート調査を経て,さまざまな昆虫が食べられていた中部地方をフィールドワークの場とした.そのフィールドで,虫を食べるのか,どんな虫を食べるか,どのようにして採るか,どのようにして食べるかを聞いて回った.イナゴ,ハチの子,カイコのサナギ,コオロギ,セミ,ゲンゴロウ,ガムシ,ザザムシ,カミキリやガの幼虫などさまざまな食用昆虫があった.なかでもクロスズメバチの食べ方や採り方にはいろいろなバリエーションがあることがわかったが,それらをどのように整理するかに悩んだ.悩んだ末,どのような調理方法をとるか,どんな採り方をするかなどの手のかけ方や技の発達の仕方で整理できるのではないかと考えた.それによって採り方や食べ方を「巧緻性」「精緻性」という尺度で表し,その連続的な分布傾向から相互の関連によって慣行が構築されていることを示すことができた.

このときは一夏の調査で250カ所ほどを回った.車に寝泊まりしながら,朝から晩まで人々を訪ねる旅だった.調査先では,忙しいときにも仕事の手を休めて話をしていただいたり,朝早くあるいは夜遅くでも家に招き入れてもらい,食事を勧められながら話を聞かせていただいたこともあった.今にして思えば,なんとずうずうしいことをしてきたのだろうと恥ずかしいのだが,各家それぞれの味があるハチの子やイナゴ料理を味わいながら,「虫の食用」だけでなく,その土地の食事,生活,歴史などの話をうかがうことができた.私にとっては,昆虫食が成り立つ社会やその地域の価値観,さらにそこに生きる人々の哲学へと思考を広げるまたとない機会となった.

民族昆虫学へ 
私の研究はこのときからスタートして,どう猛なオオスズメバチを捕獲する人々の研究,韓国や中国をフィールドとする研究へと発展していった.さらに地理学に加えて生態人類学を学び,カラハリ砂漠の狩猟採集民サンの調査,東南アジア諸国での調査にも参加する機会を得た.山でハチの子と出会ったあの夏から二〇年以上が経過したが,どこへ出かけても「虫を食べますか」で始まる昆虫食研究を続けることができたのは幸せだった.

このたび,これまでのフィールド研究をまとめ,『民族昆虫学─昆虫食の自然誌』として出版させていただいた.日本,南部アフリカ,東南アジア各地の人々の食用昆虫の種類,その採り方,食べ方のバリエーションから,そのような慣行がなぜ行われているのだろうかと問うてみたのである.「なぜ」というのを追究しようとすると,それは起源の探求になりがちである.しかし,人々は昆虫をどのように食べているのか,あるいはどのような価値観を持っているのかということからも考察できるのではないか.それらを自然誌として描こうと試みた.人々はなにを選ぶのか,どのように採るのか,どのように料理するのか,虫の味をどのように感じているのか,それらを一連のプロセスとしてとらえてみる.そうすると,虫へのこだわりがその地域の生活とどのように関わっているかが見えてくる.昆虫食が地域あるいは民族の文化のなかでどのような意味をもっているか─それを民族昆虫学の枠組みとして提示した.さらに,自然に生きる昆虫から食料資源へという,人間と自然の「関係化」をとらえた.身近で世界中に広く生息している昆虫と人々の関わり方の比較から,「関係化」のなかにある感情,感性,創造性といった「人間性」を見出すことを試みたのである.

昆虫はおいしいのか 
昆虫食といえば「おいしいのか」「栄養があるのか」とよく問われる.どちらも人間にとって大切なことである.たしかにタンパク質や脂質に富んだ種類がよく食べられている.しかし,それが食生活のなかでどれほどの割合を占めるのだろうか.自然資源に依存する狩猟採集民にとって,昆虫は食料としてどれほどの意味をもつのだろうか.私はこのテーマをカラハリ砂漠のサンを事例として研究した.サンは,イモムシが大量に採れるシーズンとなると泊まり込んでその採集に専念することもあるという.その様子を見たかったが,調査に行った年は天候が悪く,機会に恵まれなかった.しかし,日常の採集活動についていくと,サンはイモムシやタマムシなど数匹でも採って食べている.ブッシュを歩いているとき灌木の根元をつついてオオアリの巣を見つけ,それを持ち帰って野草に混ぜていて食べる.タマムシは甘酸っぱい果実に混ぜて搗く.どちらもそれぞれの独特の味を付け加えているのだ.そういう味を表す語彙もある.味付けに昆虫を用いて,それを生かした料理をする.内臓を出したり,頭,脚,翅を取り除く下ごしらえもていねいだ.このような味わい方があることから,虫がたんにエネルギー源としてだけで用いられるのではないことがわかってきた.

20060124_2.JPG20060124_3.JPG左:サンによるシロアリ採り,右:刈り取り後の田んぼでのイナゴ採り

東南アジアでは数十種類もの昆虫が食べられている.今でも市場で新しい食用昆虫に出会うこともある.だからといって,なんでも手当たり次第に食べているわけではない.タイやラオスでは,昆虫のおいしさは「マン」という語で表される.コクがあって脂っこいという味である.まずはおいしい昆虫が選ばれている.さらに,ヤゴの種類ごとに味が違う,カメムシは翅の生えかけがおいしい,あるいは卵を持っているほうが「マン」である,生の風味がよい,特定の大きさの粒ぞろいのセミの幼虫が美味しい,などそれぞれの昆虫の風味や食感が,ひとつひとつの種類による違いだけでなく,個体の大きさ,成長段階の違い,季節などに応じて認識されている.市場では丹念に選り分けて買う人をよく見かける.また,野生か養殖か気にして,野生ものを好んで買う人もいる.ここでは,野生もののほうがよりおいしく,体によいと重宝されているからだ.このように昆虫が日常の食生活のなかにあって,より豊かな生活をつくりだしている..

昆虫を獲得する技術や工夫も興味深い.簡単に,そして大量に獲得できるものだけが食用になるわけではない.スズメバチ採りは刺される危険性は高いが,それに挑むだけの魅力があるようだ.また,チームを組んでともに活動する楽しみもあり,最新機器を投入して捕獲方法を発展させている.さらにそれを育てる魅力もある.冒頭に紹介したヘボコンテンストに集まる人々は,クロスズメバチを飼育している.クロスズメバチを養殖して思いのままに大きく育てたいというのが彼らの夢だ.そのために常に工夫を続けている.小さい巣の採り方,巣箱へのなじませ方,巣箱の形・置く位置,エサの与え方・種類・容器など,交尾した女王を越冬させ翌春に放すまで,これらの工夫と努力はあくなき挑戦のなかにあり,日々の観察力と向上心に結びついている.

昆虫食から広がる世界 
ヘボコンテストでは,参加者はそれぞれに工夫の凝らされた巣箱を囲み,取り出された巣の大きさを見ながら,工夫の仕方を話し合っている.会場は情報交換の場となる.しかし,ほかの巣をそのまままねすることはない.自分のところは標高が違うから,条件が違うからなどと判断し,また,それを自分のところに応用するにはどうしたらよいのだろうかと考える.各地の情報を組み合わせて独自の工夫をさらに発展させる.自らの原動力を得る場である.今年はこの地にヘボ友好の碑も建立された.供養塔かと思いきや,「わしらは食べるんだから,供養しても仕方ないしな.むしろヘボを通じて各地の人たち,世界の人たちと交流ができていったことがうれしいのだ」そうだ.実際,串原の人々はヘボ食で村おこしに取り組み,さらに各地のクロスズメバチ愛好グループに声をかけ,全国地蜂連合会も発足させるに至った.人々の共感によってヘボ文化のネットワークが広がっていくのを目の当たりにする.

日本,そして世界各地の人々の昆虫食へのこだわり,昆虫を通じての自然への関心の高まり,人々のつながりの広がり,昆虫食のバリエーションなどには,「貴重なタンパク質源として昆虫は食べられてきた」「貧しさゆえに虫にまで手を出す」,あるいは「簡単に得られるから食べる」などの言葉だけでは片づけられない奥深さがある.昆虫食をそれぞれの地域ごとに広く比較し,どうしてそこで昆虫食が行われるのか,そこで行われることにどのような意味があるのかについて考え,人類が環境に適応してきた時間と空間のクロスポイントに昆虫食を位置づけたい.環境を見る目を広げるきっかけとして,人々が自然を取り込んできた営為のひとつである昆虫食を提示していくことができれば幸いである.

(のなか・けんいち 民族生物学)

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