法科大学院は何をもたらすのか または 法知識の分布モデルについて

2006年4月10日 - 13:46
内田貴
(「UP」4月号より転載)

 一
我が国は,直面する困難な状況の中にあって,政治改革,行政改革,地方分権推進,規制緩和等の経済構造改革等の諸々の改革に取り組んできた.これら諸々の改革の根底に共通して流れているのは,国民の一人ひとりが,統治客体意識から脱却し,自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として,互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画し,この国に豊かな創造性とエネルギーを取り戻そうとする志であろう.今般の司法制度改革は,これら諸々の改革を憲法のよって立つ基本理念の一つである「法の支配」の下に有機的に結び合わせようとするものであり,まさに「この国のかたち」の再構築に関わる一連の諸改革の「最後のかなめ」として位置付けられるべきものである.」
 
2001年6月に公表された司法制度改革審議会意見書(以下,「意見書」と言う.)は,その冒頭で,「法の精神,法の支配がこの国の血肉と化し,『この国のかたち』となるために,一体何をなさなければならないのか」と問いかけ,格調高く上のように述べている.
 
バブル経済崩壊後の一連の諸改革の「最後のかなめ」と位置づけられた司法制度改革の,そのまた中核的な制度改革として,2004年4月に法科大学院が導入された.この4月でまる2年が経過した法科大学院は,今年,最初の新司法試験を経験する.卒業者数が少ない初年度の合格率は比較的高くなるはずであるが,それでも,新司法試験の合格率が法科大学院の経営に直結しかねないだけに,戦々恐々としているところは少なくないだろう.

私は東京大学の法科大学院で2年間,民法ないし民事法の教育を担当した.担当科目の性格上,これまで大教室で4〜500名以上を対象とする講義ばかりであった私にとって,50名から70名前後の学生を相手に双方向で行なう授業は,確かに教育をしているという実感をもたらしてくれる.名前と顔を特定して教師に語りかけられる学生の側も,目標が明確な専門職大学院ということもあって,極めて意欲的である.とりわけ学期始めの授業で,こちらが投げかける質問に対して挙手の手が林立する様は壮観である.ソクラティック・メソッドはアメリカで初等中等教育を受けた学生でなければうまくいかないのではないかという,アメリカのロースクールの教室で抱いた私の印象は,見事に覆された.もちろん,授業が進行して,常識で議論できる域を遙かに超えるテーマに入るに従い,また,学生間の力量の格差が相互に自覚されるにつれ,教室の雰囲気にも変化が生ずることはやむをえない.それでも,毎回の授業の後に教壇の周りに質問者の輪ができ,学生との対話が延々と続くという状況は,最近の学部の授業ではあまり経験しないことである.

 二
しかし,制度としての法科大学院の成功・不成功は,個々の教室の中での教育の成功・不成功とは必ずしも連動しない.法科大学院制度の将来について,すでに様々な問題が指摘されているのも事実である.そのいくつかを挙げてみよう.
 
第一に,新司法試験の合格率は,現在の前提条件が変わらない限り,将来的には3割程度になると予想されている.現実には,相当程度高い合格率を達成する法科大学院が生ずる反面,ほとんど合格者を出せない法科大学院も出現するだろう.人的・物的設備への膨大な投資を伴って設置された法科大学院にとって,この事態が経営上重大な結果を招きうることは想像に難くない.それが巻き起こす混乱はいずれマスコミを賑わすであろうが,すでに以前から予想されていることである.
 
第二に,新司法試験は,対象となる領域も広く,難易度も決して低いとはいえない水準のものになることが予想される.このことは,第一の点とあいまって,「「点」のみによる選抜ではなく「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備する」という意見書の理念に反したインセンティブを法科大学院に与えかねない.いかに工夫された試験でも,必ず「傾向と対策」の探求をもたらし,受験対応の教育を生み出す.悪くすると,多くの法科大学院の受験予備校化を招き,全国に公認の受験予備校を量産することにもなりかねない.プロセスとしての法曹養成教育を重視するのであれば,合格者数を格段に拡大し,かつ,司法試験の難易度を下げるしかない.それでは質の低い法曹を量産してしまうという懸念が直ちに投ぜられるが,そのような懸念が,所定の水準を確保しているはずの法科大学院教育に対する不信感に基づいているなら,制度設計の思想と矛盾しているし,そもそも,一発勝負の試験の難易度を上げれば法曹の資質を確保できるなどという考えは幻想に過ぎない.これは現行司法試験の考査委員を長くつとめた者としての“voice of experience”である.
 
第三に,法科大学院制度は,その教育の質を確保するため,設置基準と外部評価基準を通じて,過度の「標準化」を強いている.科目,単位数から,教育方法,クラス規模等々が標準化され,教育用教材から授業内容,試験方法に至るまで標準化への圧力がある.しかし,いくら専門職大学院とはいえ,高等教育に標準化は馴染まない.もちろん,標準化は水準を引き上げる方向では意味があろう.しかし,水準を遙かに超える教育を行なえる教師や,そのような教育に対応できる学生にとって,標準化は何のメリットも生まない.法曹養成制度の改革の目標のひとつは,世界に通用するエリート法律家の養成であったはずである.高度な教育を実施できる質を備えた法科大学院には,自由な創意工夫の余地を拡大し,本当に能力のある教師が意欲を持って力量を発揮できる環境を提供すべきである.独創的才能を育てる教育を阻んできた戦後日本教育における標準化,画一化が,法科大学院においてまで再生産されることは,決して望ましいこととは思えない.

 三
以上のような問題点は,もちろん深刻である.しかし,今後の試行錯誤の中で改善の可能性も十分ある.むしろ,制度創設時の混乱がもたらした問題に過ぎず,将来的には解消の方向に向かうと楽観的に考えることもできようし,そのように期待したい.
 
だが,私が論じようとする問題は,これらの問題点がすべて解決したあとにある.すなわち,質の高い教育が法科大学院で実施され,受験準備に忙殺されることなく幅広い勉学の機会を与えられた法曹が順調に養成されるようになった暁に,日本の社会に何がもたらされるかである.
 
意見書では,2018年(平成30年)に実働法曹人口を5万人程度にすることがめざされている.この数字が導かれた経緯は,それ自体興味深いものがあるが,いまは立ち入らない.2010年に司法試験の合格者数を3000人にするという計画は,以上の目標から逆算されたものである.現在の法曹人口(弁護士,裁判官,検察官の数)は約2万5千人であるから,あと10年あまりでこれを倍増しようという計画である.法曹1人当たりの国民数を,意見書が依拠した統計(1997年)で見ると,日本が約6300であるのに対して,アメリカは290,イギリスが710,ドイツが740,フランスが1640であり,欧米との比較で法曹人口が少ないことは事実である.しかし,意見書は,単に欧米と比べて少ないから増やすべきだなどという単純な論理に立っているわけではない.
 
中央省庁の再編をもたらした行政改革会議の最終報告は,すでに1997年に,「『法の支配』こそ,わが国が,規制緩和を推進し,行政の不透明な事前規制を廃して事後監視・救済型社会への転換を図り,国際社会の信頼を得て繁栄を追求していく上でも,欠かすことのできない基盤をなすものである.政府においても,司法の人的及び制度的基盤の整備に向けての本格的検討を早急に開始する必要がある」と述べていた.意見書も,「事前規制の廃止・緩和等に伴って,弱い立場の人が不当な不利益を受けることのないよう,国民の間で起きる様々な紛争が公正かつ透明な法的ルールの下で適正かつ迅速に解決される仕組みが整備されなければならない.21世紀社会の司法は,紛争の解決を通じて,予測可能で透明性が高く公正なルールを設定し,ルール違反を的確にチェックするとともに,権利・自由を侵害された者に対し適切かつ迅速な救済をもたらすものでなければならない」と述べている.
 
つまり,事前規制から事後監視・救済型社会への転換のためには,司法サービスをサポートするための十分な数の法曹が必要とされる,というわけである.ここにひとつの重大な政治的選択がある.国家の事前規制によって権利の侵害を防止するのではなく,事後の司法的救済によって権利侵害に対する保護を与える社会というイメージは,アメリカ型の社会をモデルとしたひとつの社会像であるが,それだけが唯一の可能な未来というわけではない.昨今,建築基準法違反事件を契機に,規制緩和の「影」の部分が語られているが,小泉構造改革を支持した日本の国民は,本当に,事後救済型の社会を選択したのだろうか.

 四
法科大学院が導入されるまで,日本には全国に100に近い数の法学部があり,約4万5千人の卒業生が毎年生み出されていた.卒業生は,中央,地方の官公庁のほか,幅広い領域の民間企業に就職してきた.法曹になったのは毎年1〜2パーセントに過ぎない.無論,4万5千人の法学部卒業生の多くが,十分な法的素養を身につけていたかどうかはわからない.しかし,契約書その他の法的文書を見せられたとき,多少なりとも意味を解することのできる人材が,毎年4万人以上生産され,その中の優秀な人材が中央や地方の官公庁に大量に入っていった.民間企業でも,現在の法務部員の多くは,法曹資格のない法学部卒業生によって占められている.日々,生きた法務に接している彼らから,若い弁護士は使い物にならないという話も聞く.

法に関する知識は,単にマンガの怪獣の名前をたくさん記憶しているといったたぐいの知識と異なり,人の思考様式を規定する知識である.戦後日本社会は,そのような意味での法知識が,広く社会に拡散していた社会だった.1994年に,私は東京大学出版会から民法の教科書の第一巻目を刊行したが,当時,学者の書く民法教科書には,一般の独習者でも読み進めることのできるような,文字通りの「教科書」が存在しなかったこともあって,広い範囲の読者に手にとってもらうことができた.そのことは,返ってきた多数の読者カードから窺い知ることができる.それを通して,民法を趣味のようにして学んでいる潜在的読者が極めて広範な職業領域に存在することを,初めて知った.法務担当者でもなく,もちろん職業法律家でもないにもかかわらず,学生時代に勉強した民法をもう一度勉強しようと,教科書を手に取ってくださった読者が多数いたのである.そのとき,私は,「法知識の分布」ということに思い至った.
 
アメリカの都市には,バーンズ&ノーブルをはじめ,著名な大規模書店があって,本好きを楽しませてくれる.しかし,以前から不思議に思っていたのは,日本の同規模の書店にあるようなスケールの「法律」のコーナーが見当たらないことである.日本では,「法律」どころか「民法」や「商法」のコーナーまであって,ハウツー本から教科書,さらには本格的学術書まで,多種多様な法律書が並んでいる.しかし,そのような光景をアメリカで目にしたことはない.並んでいるのは,せいぜい,ロースクールの学生向けと思われる若干の本と法律を扱った一般書である.これは,法律書の読者層の違い,すなわち,社会における法知識の分布の違いを示している.
 
アメリカには,約100万人の法律家がいる.このように法律専門家の数は多いが,他方で,法律専門家ではない人々には法知識はまったく分布していない.つまり,アメリカの法律家は,日本でいえば医者と同じで,法知識(医学知識)を独占しており,素人とプロの間の壁がはっきりしている.これを法知識の集中型モデルと呼ぼう.他方で,これまでの日本社会には,法知識が拡散して存在し,法曹ではない「法律家」が多数存在していた.これを法知識の拡散型モデルと呼ぶことにする.
 
学部レベルで法学教育をし,その卒業生が法曹以外の職業に多数流れていくヨーロッパ大陸の国も,拡散型モデルに属する.日本は典型的な拡散型モデルの社会であり,とりわけ法知識を備えた優秀な人材を中央省庁が多数擁するという社会であった.その人材が,その知識を活用して法律や精緻な政省令を整備し,事前規制型の社会を築いていたのである.規制を受ける社会の側にも,企業を中心に,法知識を備えた法的リテラシーの高い人材が豊富に存在し,それが戦後日本社会の制度運用を支えていた.ときに日本社会は,アメリカとの対比で法律的ではないと言われるが,それは紛争解決に司法が利用されないだけで,実は,法的リテラシーの極めて高い社会であった.新たな事態に対応するための政策は官により直ちに法令化され,民もそれに柔軟に対応できるという特質は,一朝一夕に備わるものではない.法科万能とも言われ,法学部が文科系エリートを集める明治以降の日本の伝統が一世紀をかけて築き上げてきたものであり,戦後の官主導による経済成長を支えた知的インフラでもあった.
 
その社会が,グローバリズムと市場化の流れの中で適応能力の限界を露呈することになった.しかし,どこに限界があったのかは精密に見定める必要がある.法知識の拡散型社会における高度な法的リテラシーは,ひとたび失われると,もはや容易に回復しうるものではない.本当にそれが弊害をもたらしたのかどうかは,十分な検証を要する.

 五
司法制度改革は,日本社会を法知識についての集中型社会へと転換する選択をした.現在はまだ社会に多数拡散している法知識は,今後,法科大学院が定着するなら,次第にその質を低下させていくだろう.そして,法知識を法曹が独占する社会へと向かう.その影響は,やがて,じわじわと社会の様々な面に現れるに違いない.真っ先に直面しなければならないのが,中央・地方の公務員における法的リテラシーの低下だろう.とりわけ中央の官僚たちの法的資質が低下したとき,どのような影響が生ずるか.近い将来,その影響ははっきり観察できるに違いない.
 
もし日本が,司法制度改革がめざしたとおり,アメリカ的な法知識集中型社会に向かうとすれば,紛争の発生を未然に防ぐための事前規制の質は低下し,また法知識の欠如は社会の紛争解決能力を低下させ,紛争解決をもっぱら司法的手続に頼るようになるだろう.まさに事後救済型社会の到来である.しかし,紛争解決に要するリーガル・コストが極めて高いアメリカでは,必ずしも大多数の人々がそれを是としているわけではない.日本の将来についてブループリントを描く際には,もう少しあるべき社会像の多様性を考慮に入れてもよいように思う.
 
建築基準法違反が見過ごされたためにマイホームを失った被害者は,自ら訴訟を提起することによって自分の権利を守り,ひいては法の支配の貫徹を図るというのが事後救済型社会である.耐震強度の偽装問題をめぐり,いつものようにすぐに政府の政治的責任を云々する人々を見るに付け,本当に国民は,自分達が行なった(はずの)将来の社会像についての選択に気がついているのだろうか,と考え込んでしまうのである.
(うちだ・たかし 民法)

コメント (10)


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