立花隆先生講演 『戦後日本のファウンディングファーザー・南原繁,そして大学の役割とは』

2007年5月2日 - 19:40

2006年8月15日,東大安田講堂で開催された「8月15日と南原繁を語る会」.その内容と南原繁の主要演説をまとめた『南原繁の言葉―8月15日・憲法・学問の自由』の刊行を記念して,2月24日に編者の立花隆先生と執筆者のお1人である辻井喬先生との対談が、3月9日に立花隆先生の講演会が行われました.その要旨を2回に分けてご紹介します.今回は立花先生の講演会をご紹介します.(文責:東京大学出版会編集部)

■終戦前後の東大キャンパス

ほとんどの人,特に若い人は「南原繁って誰?」という感じでしょう.僕はいま66歳ですが,南原さんと聞いてピンと来る人は,僕らの世代が最後ではないかと思います.

僕自身が,南原さんという人の立派さに気付いたのは『天皇と東大』(2005年刊,文藝春秋)を書くことを通じてなんですね.この本を書く過程で,南原さんの文章をたくさん読み,読むたびに「こんなすごい人がいたんだ」と.そこから始まっているのです.

去年の8月15日に「8月15日と南原繁を語る会」を東大の安田講堂でやりました.1945年8月15日に,安田講堂で天皇の詔勅を聞いた人たちがいる.彼らの話にはびっくりするようなことがたくさんあるので,「語る会」でいまもお元気な方々に語ってもらいました.

安田講堂にいたのは,ほとんどが医学部の学生だったんです.その背景はこういう事情です.日本はもうすぐ本土決戦という時期でした.そうすると最後は東京決戦になるわけです.第2次世界大戦で,ドイツのベルリンでは東のソ連側からも西側からも連合軍が迫って,めちゃくちゃな戦争をやり,終ったときにはがれきの山になりました.日本の軍部は,このベルリン式の最後の決戦をやるつもりになっていた.そうなったときに,東京決戦をどこでどうするかという計画を練っていた.

最後の防衛線をどこに引くかといったら,川なんです.隅田川,荒川といった川を上流でせき止めている堤防を切る.そうしたら関東平野は一挙に水浸しになる.東京をご存知の方はわかるかもしれませんが,東大は本郷台地というところにあり,その先に上野の山がある.堤防をきると,本郷台地と上野の山の間が波打ち際になるんです.そこで最後の決戦をするつもりだった.東大の本郷キャンパスは波打ち際を上から見下ろす位置にあり, つまり東大は最後の防衛本部になる予定だったんですね.

この本土決戦では,とにかく軍医が絶対的に足りなくなる.そこで軍医を必死に育てていた.だから医学部の学生がキャンパスにいたのです.歴史上,あのときが一番,東大の医学部に入りやすかった(笑).入りたいといえば誰でも入れたんです.教育も速成ですから,普通は最低でも基礎教育に1年かかるところを半年ぐらいで一通りのことをやる.といっても,包帯を巻いて応急措置をして,という程度ができるぐらいのこと.当時は毎日空襲という状態ですから,学生も教える側も大学に泊り込みです.

戦後,東大で終戦の詔勅を聞いた学生たちの中から世界的な医者など活躍する人が出るのですが,その時点では軍医になろうとして,ただ必死で勉強をやっていて,戦況をほとんど知らず,詔勅を聞いて大きなショックを受けた学生が多かった.とはいえ,一部には国家の中枢にチャネルのある子弟もいて,彼らは終戦が近いことを知っていたようです.

■南原の演説とその影響力

当時は,いまのような発達したマスメディアはありませんでした.新聞,ラジオはありましたが,テレビはありません.新聞だって,終戦直後のころは今のようにページがたくさんあるわけではなく,ぺらぺらのものでした.

南原さんは安田講堂でよく話をしていたのですが,そうした演説が当時は巨大なメディアの一つだった.つまり,総長が大学で学生や職員を全部集めてしゃべるというのは,大事件だったのです.南原さんは月に一度ぐらいやっていた.南原さんは諄々としてしゃべるという感じではなくて,ちょっと高揚した感じでしゃべるわけですが,実は演説の原稿を綿密に書いていた.論文や本を書くぐらい,演説の原稿に徹底的に手をいれていたのです.演台に上がる寸前まで,原稿に朱を入れてから話す.それが当時は新聞で大きく報道され,世に広く伝えられた.

南原さんは東大総長を前後6年やっていますが,その間の演説を集めた本が当時,順番に5冊に分けて刊行されました.特に有名なのが「祖国を興すもの」という本で,終戦直後にしゃべった内容そのものです.後年,その5冊を一つにして,『文化と国家』という本になり,このほど東大出版会から新装版として復刊されました.

1945年の終戦前後,そのもう少し前から,南原さんは歴史に深くかかわっていました.日本が戦争に巻き込まれていく過程で,大学を舞台にした一番大きな事件というのは,一つは滝川事件(1933年),そして東京では天皇機関説事件(1935年)です.この1930年代からの時期,ほかにもいろんな事件が起こっていた.つまり,日本が戦争に巻き込まれていく中で,大きな舞台になっていたのが大学で,そこから学問の自由というものが失われていく過程でもあったのです.滝川事件と天皇機関説事件,この2つの事件を契機に,大学を核として,社会に対してメッセージを発していくということがまったく不可能な時代になっていくわけです.

南原さんはこうした事件にいろんな形でかかわっていく.ただし,必ずしもいい形でかかわったわけではない.さきほどのビデオの中にも南原さんを称した「洞窟の哲人」という言葉が出てきました.戦争中の南原さんは,河合栄次郎事件,矢内原事件とか,他のさまざまな事件に実際にかかわるんですが,決して表に出て活躍するということではなかった.だから「洞窟の哲人」とも言われたんです.

南原さん自身は,後から反省し,もう少しこうすればよかったという思いがたまっていった.そして,1943年には学徒出陣が現実となった.東大からも多くの学生が戦争へと駆り出された.彼らの相当部分は死んで戻らなかったわけです.それに対して,南原さんは「自分は何もできなかった」という思いが強く,それがトラウマとして残るわけです.

南原繁の言葉』に収録されている南原さんの最初の文章は,1945年の4月のもので,まだ戦争は終っていない.その年の3月,東京大空襲で東京は焼け野原になった.東大赤門の近くまで火がまわった.その直後,入学式での話がこの「学徒の使命 その1」です.南原さんは「時局は実に諸君が意識しているよりはさらに深刻なものがある.そのためにはいかなる苦難をも乗り越え,たとい帝都が日本本土が灰燼になろうとも,それを覚悟せねばならぬ」というんですね.このときの新入生たちは,授業は短期間だけ受けて,すぐに勤労動員などに行くことがわかっていた.そこで,南原さんは「たとい僅かな期日とはいえども,許される日まで,心静かに勉強せよ」と語りかけた.授業では一言でも大事なことが伝えられるはずだから,しっかり学んでほしいと.

そして,吉田松陰について触れます.吉田松陰は牢屋の中で本を読み続け,他の囚人たちにさまざまなことを教えるということを,死の最後の日まで続けるわけですが,南原さんは,吉田松陰の死直前の教える・教えられる関係が決して無意味でなかったように,我々教師がほんのわずかな時間で伝えることにも価値がある,そういうことをいっています.この言葉が,焼け野原の中でしゃべったことなのだとわかると,感じ方が違ってくると思います.

次の南原さんの文章「学徒の使命 その2」は1945年9月,終戦の2週間後の文章です.この文章については,『天皇と東大』の「南原繁総長と昭和天皇退位論」という章の中に詳しく出ています.もともとは,東大の帝国大学新聞に書いた「戦後における大学の使命――復員学徒に告ぐ」というもので,ものすごく有名です.終戦の詔勅の後,国民がこれから自分たちは何をすればいいかわからなくてボーっとしていた時期に発表されましたが,強烈な印象を社会に与えるわけです.

なお,帝国大学新聞は,メディアとして社会に大きな地位を持っていた.たとえば,美濃部達吉の有名な論文のいくつかや,2.26事件を堂々と批判する文章も掲載していた.あの時代のメディアの中で,一番強力なメッセージ力を持っていたのが帝国大学新聞で,いまの大学新聞とはまったく違うポジションにありました.

さて,この中で南原さんは,「青年よ,学徒よ,希望を持て.理想を見失うな.かような苦難の時代に戦い生きた祖先はいまだかつてなかったと同時に,かような光栄なる任務が課せられた時代もまたかつてないのである」というように書くんです.国民がみな,どうしようもなく,へたりこんでいたときに,今の時代をどうみるかを説いた.敗戦というのは日本の歴史において最悪の日であるけれども,それは見方を変えれば,新しい国づくりに向かう希望に満ち満ちた時代なんだ,ということを,彼は強く説くわけですね.

一連のスピーチが,そういう形で次々と行われ,先ほど紹介したように1冊ずつ,まとめられた.それを学生や教員が帰郷するときに田舎へ10冊20冊と買って持ち帰り,地元の若者たちに配って話をした.またさきほど述べたように,有名な演説は,南原さんがしゃべると,翌日の新聞の1面全部を使って掲載されたりもしたのです.

ですから,当時の南原さんの影響力は,今の大学総長の影響力とは比較にならないぐらい大きかった.彼の言葉が,戦後の日本を形づくったというような,ある意味で戦後日本のファウンディングファーザーという側面があったのです.

■「広く,深く,遠くをみる」

南原さんのメッセージ全部を語るのは時間もないので,大切なことを紹介します.

「8月15日と南原繁を語る会」の趣意書に僕が書いたことなのですが,大学というのはどういう場であって,何ができ,何をすべきところかといえば,「広く,深く,遠くをみる」,こういう視点から社会にメッセージを発していくべきところです.真理という意味での正しさ,正義という意味での正しさ,この2つの軸で伝えていくということです.

「広い」というのは視野の広さ,「深さ」とは物事の深さ,「遠く」は,時間軸で遠くを見るということです.未来の方向,過去の方向の両方です.

たとえば,単位を年とすれば,1年,2年なんていうのは短距離の遠さですよね.10年先を見る,100年先をみる,さらに1000年先,1万年先を見る,1億年先を見る.さまざまな時間軸をベースに,いろんな対象を見る.具体的にいうと,一般社会は1年かせいぜい10年先を見ていればいいし,それ以上先は大体見えません.見ても怪しい話になります.国家についても「国家100年の計」という言葉の通り,100年ぐらい考えれば,考えすぎというぐらいになります.1000年先の話なんて怪しげですよね.会社であれば長期計画もせいぜい5年とか.政治家の考えも大体そんなもんです.みな遠くまで見ているようなことをいいますが,あれは全部うそでして(笑),次の選挙までですよ.目先のことしか見えないのが政治家なんです.

しかし,大学というところには,どういうフィールドにいるかによって違いますが,常に100年単位で物をみている人,1000年単位でみている人,万年,億年単位でみなければ意味がないという人もいるんです.大学人というのは,一般の人たちと違う尺度から世界を見ていて,「本当の意味で世界を認識するには,それだけ広い見方が必要だ」ということを理解している人たち,なのです.長い尺度でみると,短い尺度で立てられている計画はおかしいぞ,と気がつく人が,大学にはたくさんいるはずなのです.

では,その大学人たちが,社会に対してきちんとメッセージを発しているかというと,必ずしも,今も,そうはしていないですね.

1930年,40年代,太平洋戦争がどんどん激しくなったとき,多くの大学人が「これはおかしい」と気付いていた.しかし,「広く,深く,遠く」見る目があったにもかかわらず,それが良い形でまったく発揮されなかった.というよりも,逆にそうした目をつぶされるようなことが次々に起こった.そうしているうちに,すべてまるごと圧殺された.そういうことが昭和初期から戦争の時代にかけて大学の場で起きていたのです.

そういうときに,南原さんは東大法学部の政治哲学の担当という,プラトンからはじまってカント,フィヒテの思想などをもとに「政治とは何か」という研究をやっていた.ある意味で,洞窟に引きこもっていた.それを後に大いに反省したのです.

戦前リーダーシップをとっていた人たちは,戦争が終って,戦争責任が自分にも及ぶのではと思って,表舞台から引っ込んだ.そこで南原さんは戦後,リーダーシップを取ろうとした先生たちが誰もいない中で,大学人として,社会的な発言を続けた.希望を持って日本を再生しようと語りかけたのです.「広く,深く,遠く」を実践し,学問の自由を守ることに力を注いだのです.

■世界の普遍性と結びついた日本文化の希求

南原の言葉に,励ましを受けた具体例として,久保田きぬ子さん(1913〜85年.憲法学者.東大初の女子学生で,1946年法学部入学)という方の文章があります.彼女は東大に入る前に南原さんの演説にものすごく感銘を受け,入学して弟子の一人となったわけです.久保田さんの文章によると,久保田さんの弟が東大医学部に入り,その入学式のときに南原先生が話したことについて,弟が帰ってくるなり興奮した面持ちで教えてくれた,と.その話とは,「新日本文化の創造」と題した歴史的名演説です.

この演説が有名な理由は,紀元節に行われたからです.紀元節は,戦争前は日本国家建設の記念式ですから,全国で広く式典が行われていた.しかし戦争が終ったとたん,あの戦争につながるようなものは全否定されましたから,1946年(昭和21年)の紀元節の式典は,どこもやろうとしなかった.しかし,南原さんは東大で式典をやったのです.

この年の1月1日,昭和天皇が人間宣言を行いました.それまで,天皇を崇拝するということは,神話と伝説に基づいて行われてきたけれども,それは全部間違いで,私は人間なんです,と.宣言は日本全体をひっくり返すぐらいのショックを与えるわけですね.国民は「天皇は神様だ」と思っていたわけですから.そうなると,日の丸なんてもう出さない,紀元節なんて祝おうとしない.ところが,南原総長だけは,東大で盛大に祝うのです.いつもの紀元節と同じように,日の丸も掲げた.そして,安田講堂に学生を集めてこのようなことを言いました.

どこも紀元節のお祝いをしていないけれども,我々は祝うのだ.それは,神話と伝説のもとにこの国の建国を祝う,という紀元節ではない.これまでの日本は死んだ.でもいま,新しい国,新しい文化の立つ国としての日本が生まれたのであって,新しい紀元節として祝うのだ.

つまり,まったく発想を逆転した形で,式典を行ったのです.

南原さんの考えはこうです.戦争前までの日本は民族主義と全体主義,神話と伝説といったものと一体となった国としてあったけれども,戦後のいま,日本はまったく新しい国に生まれ変わって,世界の普遍性という原理に基づいた国とならなければいけない.

西洋文明の歴史でいえば,西洋各国は大きくいってルネッサンスと宗教改革という大きな精神革命を経て誕生した.しかし,日本にはそのような経験がまったくなかった.ただ,いま戦争をへて,天皇の人間宣言があって,新しい世界に立ち向かう国になった.これはまさしく日本の精神革命で,宗教改革であり,広い意味で人間の改革そのものである.その上に新しい日本文化を築きあげ,世界的普遍的文化と全体でつながる,そういう大転換が起きたのだ,と.

現代の私たちは,大抵どこへいっても,各国の人びととマインドがつながりますよね.あの1945年から数年にかけての日本の文化大革命が起きたから,日本は世界の動きにも自然にコミットできるようになった.世界の普遍性とつながるというマインドをもてるようになったのは,戦後の変化のおかげであり,その一連の理論構築をほとんど南原さんがやったのです.南原さんは戦後レジームの制度というものに,いろんな形であらゆる面でタッチしている.日本国憲法,皇室典範にもかかわり,また教育基本法は相当力を入れてやりました.

いま,戦後レジームについて,特に安倍政権は「戦後レジームはいけないんだ」というようなことをいってますが,それはまったくおかしい.戦後レジームのおかげで,我々は世界の普遍的文化につながった日本文化を構築して,こうして生きているわけです.これを全部ひっくりかえしたら,バカみたいなことになります.

このあたりの議論をもう少ししたかったのですが,時間がないのでこの辺でおわりにします.

(以上)

コメント (4)


  1. [編集日誌][メールマガジン][ブログ][東京大学出版会]2…

    東京大学出版会のウェブ活用に注目している。たとえば、本日配信の「東大出版会メールマガジン(文系)」(2007-05-02)に、『南原繁の言葉−8月15日・憲法・学問の (more…)

    トラックバック by ACADEMIC RESOURCE GUIDE (ARG) - ブログ版 — 2007年5月7日 @ 1:36

  2. 突然失礼いたします。
    『天皇と東大』関連で検索すると、こちらが出てまいりました。『天皇と東大』下巻に、当時の文学部長今井登志喜と、後の東大総長林健太郎の二人が出てきます。
    しかし、昭和10年原文の今井登志喜著『歴史学研究法』が出てきません。

    この本は、戦後、林健太郎氏が東大教養部「史学概論」講義でサブテキストにしたものです。
    この講義で使われたテキスト林健太郎著『史学概論』有斐閣で、「史料批判」は今井著に詳しいと紹介されています。

    「史料批判」という訳語は、今井登志喜氏が始めたものです。

    そこに書かれている、「偽物文献を検討するテクニック」を簡単に紹介したホームページを立ち上げました。
    http://park.geocities.jp/siryouhihann/index.html
    見ていただけるとありがたいです。

    東大史には不可欠の文献だと思います。

    今井登志喜著『歴史学研究法』を、絶版にしないでいただきたいと、切に願っております。

    コメント by せいすいえいこ — 2008年1月12日 @ 15:45

  3. 西洋でのルネッサンスと宗教改革が日本の終戦と同じ意味を持つというはどぅいぅ事でしょうか。正直いって何がどう同じになっているのか分かりません。日本には神道と仏教が作り上げた精神世界があり、それは戦前も戦後も何一つ変わっていません。日本の神道と仏教をもっと高め、ひろげようという事ですか?それならそぅとはっきり言って下さい。何いってんのか本当にアイマイすぎて分かりませんよ。

    >現代の私たちは,大抵どこへいっても,各国の人びととマインドがつながりますよね。

    これも言っている意味がまったくわかりません。私はもう5年以上も米国に住んでいて、米国の大学を卒業し、米国で働き始めたところですが、日本人と米国人の精神性の違いはあきらかです。マインドは繋がっていません。

    普遍的文化とか、普遍的なマインドとか、分けわからない抵当な事を言って、日本国民のマインドを混乱させるのはやめた方が良いです。日本には神道と仏教という、物質世界と精神世界を生き抜くための強い宗教が存在しているのです。それは戦前も戦後も何一つ変わっていません。

    変わったのは普遍性とか適当な事をいって金儲けしようとするゴロツキが五万と出現した事でしょう。

    コメント by 市川 — 2008年9月22日 @ 17:36

  4. […] 東大マガジンクラブ ? 立花隆先生講演 『戦後日本のファウンディング … […]

    ピンバック by 東大〈2009〉東京大学vs「東大」―君が東京大学に来る理由 | ってどうよブログ — 2009年11月25日 @ 21:02

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