2013年12月3日の東京大学出版会理事会において,第4回東京大学南原繁記念出版賞が以下の1点に決定しました.
『明治維新期の貨幣経済』
受賞した論文は,後日,東京大学出版会から書籍として刊行されます.
【講評】
本論文は,明治維新期における,全国および各地域における貨幣体系の変動とそれに伴う経済活動の変化について,多様な原資料の丹念な解析に基づいて,多くの新たな知見をもたらした,日本貨幣史・経済史の画期的な労作である.
本論文は,(一)明治維新期において,日本国内の各地域において貨幣体系が具体的にどのように変動していったのか,またそれが維新政府の政策とどのように関連していたのか,(二)近世に蓄積されてきた商人たちの財と技法とが,幕末維新の変革期にいかに対応していったのか,(三)維新後の改革と変動に地域経済はどう対応したのか,といった大きな問題に,具体的な事例分析による解答を与えている.その結果,今も残存する,いくつもの単純な通念(例えば,「大名貸に依存した商人たちは維新変革に対応しえずに衰滅していった.」「太政官札は一般に流通しえず,維新期の経済は停滞した.」「幕末維新期の藩札の濫発によって地域経済は混乱を極めた.」)は,さらに重大な修正を迫られることになったといえよう.
本論文の特に優れた点は,以下の通りである.
第一に,その高度な実証性である.本論文は,大坂・日田・上田・名古屋・龍野などに残された諸地域の様々な文書を丹念に解析し,一見無味乾燥な帳簿の数字の連続の中からも,興味津々たる新たな事実を明らかにすることに成功している.例えば,大坂の銭屋佐兵衛家は,大名貸に大きな比重を置いた経営にもかかわらず,巧みな経営手法や幕末に始めた高知藩との商品作物を担保とする取引などによって,変革期を切り抜け,近代的銀行へと転身していった.それは,外資導入を排除しつつ非欧米で最初の産業革命を実現した日本経済の歴史的背景を示唆するものである.
第二に,その分析の切れ味の鋭さである.例えば,著者は,黒田明伸氏の「地域間決済通貨」と「現地通貨」との区別に着想を得て,ある貨幣の通用力を単純に一般的に議論するのではなく,それがどのような決済においては有用で,どのような決済には不適なのかを明らかにし,その結果,性質の異なる貨幣が,同時期に,それぞれに選好され,使用される場面があったことを実証した.例えば,太政官札は,日本国内の地域間決済においては便利であり,実際に使用されたが,地域内の少額取引には不便であり,むしろ藩札が商人・農民の側から求められることがあったというのである.それぞれに事情のある個別の地域において,個々の経済主体が,その場その場で利益と利便を追求することが,一見矛盾するような多様な貨幣流通状況を生んでいく様相の,具体的史料に基づく叙述は,実に鮮やかである.
第三に,その研究史上の確実な位置取りである.本論文は,戦前以来の膨大な先行研究を周到に踏まえている.しかも,それらが見過ごし,あるいは見落とした点を率直に指摘している.そして,先行研究の欠を着実に補う史料探索と分析とを行い,説得力のある結論を導出している.それ故に,本論文は,今後の維新期の日本貨幣史・経済史のさらなる研究を導き,その方向性を示す可能性を十分に有している.
以上により,本論文は,第四回東京大学南原繁記念出版賞の受賞にふさわしい作品であると判断する.
【受賞のことば】
小林延人
このたびは拙論を第4回東京大学南原繁記念出版賞に選んでくださり,誠にありがとうございます.まずは当賞の選定にあたられた選考委員会および外部審査の皆様に深くお礼申し上げます.
私が「明治維新期の貨幣経済」を研究として扱うようになったのは,学部3年の時に太政官札という紙幣に関するレポートを,指導教員のゼミで提出したことに由来します.課題は,明治大正期の刊行物を用いてレポートを書けというもので,政治史でも経済史でも思想史でもかまいませんでした.私は日本史学研究室の図書室にこもり,一番古そうな装丁の本を選ぶことにしました.いちいち本を取り出し,奥書を確認するより,背表紙が古ければ刊行も古いだろうと当時の私は髙をくくったわけです.そこで出会ったのが,和紙に墨で筆写され函にしまわれた『世外侯事歴 維新財政談』という書籍です.「世外侯」すなわち井上馨に関する事歴を渋沢栄一ら関係者が回想しているのですが,冒頭から太政官札に関する叙述にかなりの紙幅が費やされていました.太政官札について何も知らなかった私でも,太政官札発行は維新期の変革の中で初発の重要な政策であったということが理解できました.指導教員も太政官札は卒業論文のテーマになると言ってくださり,太政官札の流通経路を分析する論文を執筆しました.
以後「明治維新期の貨幣経済」について研究を積み重ねていく中で,貨幣発行の政策論よりも貨幣流通の実態把握に分析の主眼が移りましたが,幕末維新期の変革の中で特定の貨幣がどのように流通したかあるいは流通しなかったか,その考察を通じて貨幣流通のメカニズムを自分なりに解き明かしたいという関心は変わっておりません.維新期は日本史上最も多くの種類の貨幣が発行された時期ですが,それをもって人々が混乱し経済活動も停滞したと結論づけるのではなく,同時代の人々が多様な貨幣をどのように使い分けていたのか,それを経済活動に即して捉え直そうと試みたのが本稿です.貨幣体系の構造的変容と持続的な経済成長という一見相矛盾する二つの側面が維新期に立ち表れる姿を,いずれ出る拙論にてご確認いただければ幸いです.
とはいえ,当賞への応募後も,様々な場所で報告する機会をいただき,多くの方々から問題点を御指摘いただきました.それらを踏まえ,もう一段階ブラッシュアップして刊行に漕ぎつけたいと思います.
【受賞者略歴】
小林延人
1983年生まれ.2005年東京大学文学部歴史文化学科卒業.2007年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修了.2011年同上博士課程修了.博士(文学).現在,日本学術振興会特別研究員PD.